マイケルのブログ

大手上場企業で働く人間の考え事

マスクとマスク

人って意外と他人のことを見てないなって思うことが増えた。

 

試しに、人は見かけによらずということわざがあるだろう。

でも自分はほとんどの人が見かけ通りだと思っている。

なぜなら、第一印象でヤバいと思った人は、実際にヤバいことが多かったからだ。

 

特に、第一印象で重要なのは顔つきだ。

顔ではない。

顔は生まれ持ったものだからどうしようもできないが、顔つきにはその人の生き方や精神性が出る。

目ではなく、目つきに注目するみたいな感じだ。

 

人を見るときは見た目や言動といった情報に注目する。

人の性格の8割ほどは見た目で判断でき、たまに見た目だけだと判断が難しい人がいるけどそれは今まで接してこなかったタイプの人間であり、脳がこの人どんな人なんだろうと処理するのに時間がかかっている為であるか、もしくは本性が見た目に隠れていて見えにくい場合だ。

本性が隠れていて見えにくい場合は言動に注目するのがいい。そういう人はきっと良い人のマスク(仮面)をつけている。

 

見た目8割、言動2割。

 

最近のニュースでも事件が起きた時に、犯罪者のことを知っている人へのインタビューでみんな口を揃えて『そんなことするような人には見えなかった』みたいなことを言うけど、みんな他人のことに関心ないんだなと思ってしまう。

もちろんメディアが偏ったインタビューだけ報道してる可能性もあるが、もっと人のことをよく見なきゃダメだと感じる。

ほとんどの人は見た目通りの性格だ。

見た目で判断できない人は言動に注目する。

 

マスク(仮面)の裏を見抜き、人を見極める。

現代だとマスク(仮面)の上からマスクをしてる人が多いから、顔の情報が読みにくいが、せめて自分に関わる近くの人くらいはよく観察したほうがいい。

君子危うきに近寄らずで、無駄なストレスやトラブルから自分を守る為にも。

 

まずはマスクを外すところからスタートだ。

好きなこと、得意なこと

昨今、巷では好きを仕事にってよく言われるようになった。

 

これが世の中の多くの人の仕事選びを混乱させる原因で、最近だとユーチューバーとかが言っているイメージがある。

その一方で、仕事は得意なことをするのがいいと言う論者もいるが、自分はそのどちらも似通っているものだと考える。

 

なぜなら、好きなことは往々にして得意であることが多いからだ。

 

例えば、サッカーがめっちゃ得意な人が周りから認められていく中で、気づいたら好きになってなっているパターンはあるだろう。

でもサッカーめちゃくちゃ下手な人がサッカー好きですって言うことってあんまりないんじゃないか。

サッカー下手な人は周りから認められずに、だんだんとサッカーするのが嫌になっていくと思う。

得意だし周りよりもできると自覚しているからこそ好きになるんじゃないか。

 

他にも、勉強好きな子が勉強得意なのは周知の事実だ。

やっぱりこれも、勉強が全然できないけど、勉強好きですって言う子はいない。

周りよりも得意だと思っているからこそ好きになるんじゃないか。

得意だから好きになる。

 

得意=好き。

全てに同じことが言えそうだ。

 

もしも、この説が正しいのなら好きなことと得意なことは同じであり、好きから仕事を探そうとするよりも得意から仕事を探したほうが圧倒的に探しやすいし、幸せになれる。

やりたいほど好きな仕事がないのなら、まずは得意なことを探すところからスタートだ。

やがて好きに変わっていくから。

自分への問い

将来何がしたいの?って誰かに質問するとき、大抵それは自分に向けた質問な気がする。

 

それを面接官が聞くこともあるだろう。

上司が聞くこともあるだろう。

友人が聞くこともあるだろう。

自分でもわからないからこそ、あえて相手に質問してそのヒントを得ようとしてるんじゃないかと、そう思うのである。

 

だって自分の目標や夢がしっかり描けていれば、そんな質問はしないと思うからだ。

少なくとも自分はそうだ。

 

もちろん相手への純粋な興味関心から質問することもあるかもしれない。

でも多くの人が気にするのは他人の人生ではなく、自分の人生だ。

自分の人生で精一杯になれば、他人の人生のことは気にならないのが普通だと思う。

 

そしてこの手の未来形の質問には大体当てはまる気もする。

どんな車に乗りたいの?とか、

どこに住みたいの?とか、

なにしてるときが一番楽しいの?とか、

色々ある。

 

純粋な気持ちで聞いている人もいると思うが、実は無意識に自分に向けた質問になっている人も相当数いるのではないだろうか。

 

それは全て自分で選べる自由な世の中になったからこそ、逆にどうすればいいかわからない人も多くなったことの表れなのである。

 

カフェの効用

この間生まれて初めて雑誌を買った。

 

経済系の雑誌なんだが、意外と内容が面白かった。

というのも本と違って、テーマが多岐に渡るからだ。

経済の専門家、人文学の専門家、実際の社長などへのインタビューが1冊にまとめられていて面白い。

ネットの情報だけだと目がチカチカして疲れるから、こういう紙媒体もやっぱりいい。

紙の手触りやインクの匂いなんかがなにより好きだし。

 

とはいえ買って満足しないように、本や雑誌を買ったらすぐに近くの喫茶店に入って読むようにしている。

読みたい熱が冷めないうちに、できれば5分以内にカフェに駆け込む。

カフェはなるべくリーズナブルなチェーン店がいい。

なぜならルノアールなどの値段が高めのカフェは、店員さんのサービスが良くて常に見られてるような気がし、長居して集中できないからだ。(コメダ珈琲とかもそうだ、店員さんが席の近くまできて接客してくれる)

 

ちなみにコーヒーも持ち帰りはダメだ。

どちらかというとカフェという空間に価値がある。

だからコーヒーは店内で飲むのがいい。

 

そして必ず赤いボールペンを用意して、気になるところに線を引く。

そうすれば後で読み返す時も気になるところは線を引いてあるから見つけやすく、何度も読むうちにいつしかそれは自分の意見になっている。

 

 

ただそれだけの話である。

クリスマスとお正月

クリスマスとお正月が近づいている。

どちらも1年のうちで最も盛り上がる日の1つだ。

 

 

そして自分は前々から、クリスマスは都会のものだと思っている。

というか都会に住んでると、クリスマスの雰囲気を感じられる。

 

大人はクリスマスにロマンチックな期待を抱くと思う。

その期待通り、欅通りや東京タワーのイルミネーションは綺麗で、有楽町や六本木のあのビルのライトや街灯が、やけにロマンチックだ。

そして広瀬香美のDear againを聞いて、みんな首にマフラーを巻いている。

都会の無機質なビルやコンクリートの冷たさが、人肌の温もりを求めるカップルの距離を絶妙に縮める。

 

これは自然の多い田舎だと、なかなか実感できない。

だからクリスマスは都会でこそ、盛り上がるんじゃないだろうか。

 

 

一方で、お正月はどうだろう。

お正月は逆に田舎のものだと思っている。

お正月にはロマンチックなイメージは必要ない。

それよりも祖父母に会ったり、親戚で集まったりとみんなワイワイしてるイメージだ。

広い家に集まって、広い庭で遊んだり、しばらくぶりのお互いの顔を確かめ合う。

それにお雑煮や鏡餅おせち料理を食べ、玄関には門松を飾り、神社へ初詣へ行く。

家族と自然の温もりを感じる。

 

そもそも会社は休みになるところが多いし、都会のオフィス街は閑散としているだろう。

 

お正月は田舎の方が向いているイメージを勝手に抱いている。

勝手な偏見である。

 

 

今年も、クリスマスが過ぎた瞬間からお正月へすぐに切り替わるんだろうな、世間のムードが。

 

クリスマスの予定はない。。。

 

美しい人

埼玉県は所沢市にある角川美術館に行ってきた。

外観が組み木のような感じで圧巻なのだが、今回はゴッホ展を観に行った。

 

ゴッホは生前に作品が評価されることなく亡くなった変わり者の天才だ。

その苦悩の人生がなんとなく、美しい絵を通して分かった気がする。

 

 

ところでだ、

美術館の中で美しい絵を観て感度を高めている時に、

『カシャッ!』

iPhoneのシャッター音を平気で鳴らさないで欲しい。

一度ならいいが、何回も何回も。

あの音量で驚くし、なにより美しくない。

美しくない行為だと思う。

 

 

その後に寄ったカフェでは、お客さんより店員さんの方が賑やかにしていた。

 

いや、いいんだ。

それでいいんだ。

それが普通で、人がいなけりゃバイトは喋るものなんだ。

自分の常識がズレてるだけなんだ。

アインシュタインも言ってた、常識とは18歳までに身についた偏見のコレクションであると。

ただの自分の偏見なんだ。

 

社会人になると、思わぬ所で自分の持つ偏見に足を引っ張られる。

イチイチ考え過ぎてしまうんだ。

 

でもそれでいいんだ。

人と感覚が違ってたって構わない。

 

 

試しに、偉いという漢字について考える。

文字通り、にんべん(イ)に、違う、と書いて、偉い、と読む。

人と違うことをする人、違う感覚がある人が偉くなる。

 

そう自分に言い聞かせるのだ。

監督の采配

ロッコがベスト4進出を決めた。

アフリカ勢で初らしい。

 

自分もポルトガルVSモロッコを中継で観ていたが、モロッコの方が勢いがあったし、監督も後半に入ってから交代カードをどんどん切り、チャンスも多く作っていた。

一方ポルトガルは、後半に入ってからやっとロナウドを投入してチャンスが増えた印象だった。

ロナウドが鼓舞してチームが動くみたいな感じで、ジョアンフェリックスのプレーは終始沈黙してた。

ロナウドとペペと、ベルナルドは勝ちたい気持ちがプレーを通して伝わってきたけど、ブルーノフェルナンデスや、フェリックスからは気持ちが伝わってこなかった。

ロナウドがいるとやりにくいのだろうか。

代表でもマンUでも冷遇されているロナウドが不憫でならない。

 

 

ブラジルVSクロアチアの試合は、ブラジルの中盤が沈黙。

クロアチアからボールを奪ってもすぐ奪われ、ボールを回されていた。

ボールが真ん中で繋がらないから、ディフェンスから前線へロングボールを放り込むパワープレーになっている印象だった。

結果クロアチアにボールを持たれ、自陣深くまで攻め込まれることが多かった。

 

 

アルゼンチンのメッシなんかもそうだが、所属しているクラブチームではめっちゃ活躍している選手でも、代表戦になると噛み合わない選手もいる。

監督の采配次第だが、逆に言えば代表戦では、監督が誰を起用するのかに全てかかっている。

そりゃあもちろん日本よりもブラジル、ドイツといった強豪国の方がビッグクラブでプレーする選手を多く抱えてるし、個の能力は高いと思うけども、結局サッカーこそチームスポーツだから誰をどこで使うのかでチームの強さは変わってくるのだろう。

スター揃いの強豪国が相次いで敗れているのを見ると、そんな気がしてならない。

 

会社とかでも同じだ。

あの人はこの業務向いてないけど、逆にこの業務になると生き生きと仕事するみたいな。

顧客との対面折衝は得意だけど、数字を使ったこまごまとした業務は苦手とか。

その逆もあるだろうし。

あの人とあの人は一緒に働いても噛み合わないとか、喧嘩ばかりして仕事が進まないとか、そういうのって我々の実生活でもある。

 

結局、采配次第ということか。

 

 

そう思うと日本を率いた森安監督はやっぱり凄かった。